花倉の乱

今川氏輝の若すぎる死…
その死後、今川家の跡目を巡って熾烈な争いが勃発する。
氏親の三男・玄広恵探、五男・梅岳承芳
本来なら跡を次ぐべき(?)今川彦五郎が、氏親と同日に死亡するという
特異な状況がこの戦いを生んだ。

玄広恵探が氏親の側室「福島氏」の子であり、
梅岳承芳は氏親の正妻「寿桂尼」である。
重臣達の今後の今川家内の権力を巡って、
二派に分かれての激しい内乱となった。


《戦いの流れ・・・ 義元軍・黒 玄広恵探軍・赤

☆相模国・鎌倉の建長寺・円覚寺の僧たちが、氏輝公の病気平癒の祈祷を行う。

1536年3月17日 今川氏輝が死去。同日、弟(氏親・次男)の彦五郎も死去。

1536年5月 3日 梅岳承芳、時の将軍・足利義晴より偏偉を賜り、今川義元と名乗る。

1536年5月24日 寿桂尼福島越前守の宿所を訪問する。
           未明に乱が勃発、寿桂尼は久能山に退避する。

※方上城・花倉(葉梨)城を拠点とし、今川館を襲撃する。
※今川領国内(駿河・遠江)で、同調勢力との戦闘が発生する。
※遠江国において、孕石郷左衛門尉が戦勝をあげ、義元より感状を受ける。

1536年6月10日 岡部親綱が方上城を攻撃、落城させる。方上城の兵、花倉城へ撤退する。
           花倉城を攻撃。玄広恵探、支えきれず逃亡。
           玄広恵探、瀬谷戸の普門寺で自刃する。

           義元、駿府浅間神社に黒印状を発給し、後継者として領内へ布告。


今川義元側 武将 玄広恵探側 武将
岡部親綱 福嶋彦太郎
由比光規 斉藤四郎衛門
孕石郷左衛門尉 篠原刑部少輔
井出左近太郎(寝返り) 福嶋弥四郎
平野弥四郎 安西三郎兵衛
三浦元辰 朝比奈又二郎
瀬名陸奥守氏貞





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